縁起

縁起

History of Gokuraku-ji

 本尊は毘沙門天立像(通称勝利毘沙門天-江戸時代初期の作)脇立に恵比須神像と大黒天像が祀ってあります。

一遍上人(智真・1239~1289)を宗祖とする時宗の寺院で、現在は神奈川県藤沢市西富 1-8-1にある総本山清浄光院(遊行寺)に属します。

 極楽寺は平安時代中期の正暦元年(990)、我が国浄土教の開祖恵心僧都源信が上京の一条堀川東入ルに創建した天台宗の寺院に始まると伝えられます。鎌倉時代中期の建治元年(1275)、遊行上人一遍が京都で布教のおりに中興し、時宗の寺院としました。のち、戦国時代の天正元年(1573)4月3日、織田信長の上京焼打ちによって類焼し、その後、豊臣秀吉の都市改造により上京の東京極大路(現在の寺町通)今出川下ルに移りましたが、江戸時代の元禄5年(1692)12月1日、青蓮院の里坊より出火し、300戸余りが焼失するという大火のおりに類焼し、同地にあった真如堂(真正極楽寺)・東北院・大興寺・迎称寺とともに翌年、現在地に移転しました。
 本堂は比叡山横川の恵心堂と同じく宝形造の構造になっています。本堂内には、本尊・脇立の他、室町幕府第三代将軍足利義満『鹿苑院殿』の位牌を安置しています。

寺領の寄進

当時の第 31世覚阿弥陀仏臨和尚が、慶長年間(1596〜1615)に阿茶局に連歌を教授した縁により、山城國深草村の17石を寺領として当寺に寄進されたと伝えられます。

極楽寺の目薬

江戸時代に、当寺で目薬を取扱っていたことが知られ、京の商人が江戸で「極楽寺の目薬」として商いされました。そのときの証文『江戸表御薬(目薬)賣弘」が当寺に残されています。

極楽寺の墓地

樋口芥亭(道立)墓

 江戸時代中期の儒者・俳人。
与謝蕪村とは20年余の交友があり、夜半亭社中の重鎮として活躍。樋口らによって左京区の金福寺境内に芭蕉庵を再建しました。

児玉判左衛門輝清墓

 江戸時代後期の前橋藩(群馬県前橋市)の大目付。御所警備に数十名の輩下を率いて数度上洛、その指揮に当ったものと思われます。慶応4年(1868)、御所の警備に向かう途中、客死しました。

六道輪廻の間には    
 ともなふ人もなかりけり
独むまれて独死す    
 生死の道こそかなしけれ

一遍上人御歌 

毘沙門天立像

※本尊が毘沙門天というのが珍しく、本尊・脇立を合わせて“三福神”と呼ばれています

住職あいさつ

はじめまして。極楽寺住職の望月でございます。

本来お寺は敷居の高いものではなく、みなさまがお悩みなどを気軽にお話しに来られる場所でした。極楽寺では入りやすいお寺、地域のみなさまに安心していただけるお寺を目指しております。小さなお悩みでも構いません。是非、当ページよりご連絡ください。

〒606-8414
京都府京都市左京区浄土寺真如町15
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TEL:075-751-7050

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